Afeter masuyama   [photograph]
2016--


制作メモ
【1】 徳山ダムが完成する2年前の、2006年に増山たづ子さんは亡くなった。
徳山村のあった場所がダムに沈む姿を彼女は見ていない。
彼女がダムに沈んだ徳山を訪れていたらどんな写真を撮っただろうか?
僕は彼女の写真から感じた撮影の癖を真似し、彼女が使っていたのと同じカメラ(c35ef)を使って、その後の徳山を撮影していくことにした。


【2】 僕の撮影する徳山の写真には絶対的な喪失が2つあった。
1つは、徳山村という土地の喪失。
もう1つは増山たづ子という身体性の喪失である。


【3】(ダムに消えた徳山村)そこには増山たづ子の撮った膨大な写真だけが残った。
僕は、徳山に対してこの様な認識を持っていたし、その事実を証明するような気持ちでダムを訪れた。
しかし、ダムの湖畔で出会った村に住んでいた人から聞いた様々な話で、僕の抱いていた前提は崩れ去った。

(徳山村が、忘れ去られてしまわないように)

そんな気持ちで、様々な活動を続けている人達が今でもいる。
徳山村は地図からは消えてたかも知れないが徳山村の人々はまだ生きている。


【4】 徳山村の住民が離村を始めたのは1984年。
僕が生まれたのが1983年だから、徳山村で生まれた人が、僕の同じ世代にいるんだと考えると不思議な気持ちになった。
僕達の世代までは、徳山村が生まれ故郷になった可能性だってあったのだ。


【5】 ダム建設に伴う集団移転では、徳山から近い揖斐川町に1箇所、岐阜市に隣接する本巣市に4箇所の移転団地が 準備された。
徳山村は8の集落で出来ていて、それぞれの集落や、隣組などの小さなコミュニティーの強い繋がりによって地域 が維持されていた。
しかし、集団移転の際にそのコミュニティーが反映されることは無かった。
徳山村といっても集落が違えば、違う村の住民みたいな感覚だという。集団移転により徳山にあった強い地域の繋がりは崩れてしまったのだ。


【6】 徳山の祭りが継続されているという話をダムで聞き、祭りを見てみたいと思い、情報を集める為に移転者の多くが住んでいる本巣市の役場を訪ねた。
しかし、役場では祭りに関する情報を得る事はできなかった。
その後、移転団地のある地域の公民館を訪ねたがそこでも情報を得ることはできなかった。
(そんな祭りは知らない)その様なことを言われる度に、少し寂しい気持ちになった。
それは(他地域の祭り)というニュアンスが会話の中に含まれていると感じたからかもしれない。
地域の祭りなどの維持が難しい時代、土地という根を失い、宙づり状態になってしまった文化はどう継承されていくのだろうか。


【7】 地域コミュニティーを維持したいという思いから、徳山村の本郷地区で行われていた祭りが、集団移転後に形を変えて継続されている。
本郷の祭りは、夜に神輿を担ぎ集落内を走りまわる激しいものだったが、移転後に再開された祭りでは、5つの移転団地を祭りで繋ぐ為に軽トラに太鼓を載せ、トラックの荷台に神輿を積んで各団地をまわっていく。
総移動距離は100キロ近い。
太鼓を載せた軽トラ、神輿を載せたトラック、神主や関係者を乗せた大型バスの3台で朝から各集落をまわる。
少し異様な祭りだが、徳山のコミュニティーを維持したい。という思いがこの様な形の祭りを生み出している。


(形態 / インクジェットプリント・タイプCプリント混合 サイズ/L版)



[掲載]


[展示]
2016/ かがわ山なみ芸術祭 観音寺エリア